北陸地方にまつわる書籍を主に手がける出版社「桂書房」が、今年で創立40周年を迎えた。その記念展示会「大切なのは言葉なんかじゃない、」が、滑川の古書店「古本いるふ」で10月と11月に行われた。「越中資料集成」「桂新書」「記憶」シリーズなどの歴史・民俗・文化関係の刊行物から、イタイイタイ病をはじめ社会問題に肉薄する記録集やルポ、コレクション図録「棟方志功 装画本の世界」、実話を基にした絵本「カモシカとしょかん」まで多岐にわたる出版活動を展開してきた同社。周縁に立つ地方出版社として、大手出版社が取り扱わないようなテーマをすくい取り、書き手の「記さねばならない」という声、読み手の「知りたい」という声に呼応し続けてきた。代表の勝山敏一さんにこれまでの歩みについて話をうかがった。
勝山敏一:1943年、新湊(現・射水市)生まれ。1983年に桂書房を設立。編集人として数多くの書籍を手がけるのみならず、「北陸海に鯨が来た頃」「女一揆の誕生」などの著作も精力的に発表している。
――富山を代表する出版社として、「桂書房」は600冊以上もの刊行物を出版されてきました。今回の展示会についてどのように感じてらっしゃいますか。
思いがけない展示だったものですから、こうやって本を並べてみるとやっぱり思い出すことも色々あります。1983年に桂書房を立ち上げたんですが、家族には内緒でね。二間と台所があるアパートの小さな部屋を借りて、電話と机だけを購入して。アパートに入って、あと10年経ってどうなっているかって、自分の行く末のことはやっぱり思いましたね。畳の上にひとり座りこんで、10年続けばいいなあと思った時の部屋の光景は今でも目に浮かびます(笑)。
もともと僕は学校の実習助手をやっていて、33歳の時に富山の出版社「巧玄出版」に勤務するんですが、編集長になってから会社借入金の連帯保証人になりました。4年目で会社が倒産、負債をかぶったんです。とにかく日々の暮らしを続けるため、外商セールスマンとして書店に勤め始めました。本のセールスを始めて2年ほど経っていたか。能登半島まで行って、35,000円の美術書を農協さんに同行して一軒、一軒売って回っていたんです。セールスを終えて能登を22時過ぎに出て、冬の猛吹雪の中、富山の自宅に帰る。そういう日々の中で、どうせ売るのなら自分で作った本を売りたいなと、ある日、パッと気持ちが切り替わったんです。それまでは一生サラリーマンとして、負債を返していければいいと思っていました。子供も3人いましたからね。でも2年もしたら、これだけの本を売ったという自信がついたんでしょうね。自分で作った本も売れるのではないかという気持ちになって、桂書房を立ち上げることにしました。それでまた、家族に秘密を持つことになるんだけれども(笑)。
当初は高い本を作っていこうと考えていました。1,000円や2,000円の本では何百軒と回らなくてはならないけれど、10,000円くらいの高い本だったらいけるじゃないかと。幸いにも久保尚史先生(大山歴史民俗研究会会長)が、富山県史編纂用のたたき台となる原稿を書いていらした。巧玄出版の時に原稿をいただいていた方で、「お願いしますよ」と言われたんです。それが「越中中世史の研究 室町・戦国時代」です。500ページ近い本だったんですが10,000円で売るにはちょっと厚さが足りないと思い、7,000円という定価をつけて桂書房の最初の本にさせていただきました。
この本が結構売れました。それまで富山の中世に関しては研究論文みたいなものしかなかったものですから。古代の万葉集とか江戸時代についての本はありましたが、越中の戦国時代のことを書いた通史的な本は全くなかったんです。武将の佐々成政の本はありましたけどね。500部刷りましたけど3カ月ぐらいで売り切れました。
――富山の中世の歴史を知りたいと思う人がたくさん居たということですよね。
そうですね。本を手に取ってくださる方は、みなさん知的好奇心がものすごく強い人たちでした。僕が営業で回る先は学校の先生が多くて、社会科の先生、歴史の先生がまず買ってくださるんです。久保先生が原稿を書き終えられたタイミングが良かったんですね。本当に幸運でした。
――1988年に出された「村と戦争 兵事係の証言」(黒田俊雄編)も、戦時下の徴兵にまつわる貴重な資料が数多く掲載され、付録に赤紙をつけたという点でもそれまでにはない内容だったのではないでしょうか。勝山さんご自身も、手応えを初めて感じた本だったと言及されています。
そうです。手応え十分でした。さきほどの久保先生から、村の兵事係をされていた出分重信さんという方が、赤紙なんかの貴重な資料を公開されたと聞いたんですね。それで僕が出分さんの元へ訪ねていって、出版させてほしいとお願いしたんです。本来は廃棄しなくちゃならない資料を、戦場に赴いた人たちの命が懸かった資料だからと、出分さんが何十年も守っていらしたわけです。
後で分かったことですが、出分さんはずっと村の人からあまり良く思われていない方だったようです。本が出てから「兵事係の資料を隠し持っていたのは、いつかマスコミに公開して自分の名を上げようと思ったからなのではないか」と陰口を叩かれたと、ご本人が仰っていました。本を出す前にも出分さんは別の騒動であらぬ疑いをかけられ、村八分にされたことがあるとも仰っていました。本当に辛い目に遭われた方でね。資料を公にしようとされたのは、自分がいかに誠心誠意、地元のために役場の仕事をしてきたかを証明したかった、そういう思いがおありだったんでしょうね。
当初は僕が出分さんのお話を聞き書きするつもりだったんですが、出分さんが「お前ではダメだ。うちの村から出た偉い先生に俺から頼む。それだったら出していい」と、ご自身で黒田俊雄先生(富山県出身の歴史学者/大阪大学名誉教授)に執筆をお頼みになったんです。黒田先生は出分さんと同じ村のご出身でした。一流の先生に書いてもらわないと、誠心誠意という兵事係の仕事が認めてもらえないのではないか。そういう思いで黒田先生にお頼みになった。黒田先生は名高い大先生でしたから、すごくお忙しかったと思うんですけどね。地元のちっぽけな出版社の本に、よく携わってくださったものです。日本中世史を専門となさる黒田先生が、近代のアジア太平洋戦争における兵事係が村人とどんな関係を築き、どんな戦争協力を村人たちから引き出していたのかというテーマをお引き受けになったのは、出分さんの強い思いを受け止められたからだと思います。出分さんの気迫はすごいものでした。一字一句、間違えたらアカンという思いでした。本当に手応えがあり過ぎた、そういう本ですね。
――1986年に県の美術館がアーティスト・大浦信行さんの作品を非公開にし、県立図書館が図録を焼却するという事件がありました。表現の自由や知る権利を侵す事件として全国的なニュースになり、裁判へ発展しましたが、桂書房さんは数々の刊行物によって、事の経緯や問題点を記してこられました。
出版社として良いと思って出した本が、一部の人たちの抗議を受けて国が発禁処分にしたというように感じる問題でした。訴訟の原告にもなってこの件に関わりました。県の美術館は大浦さんの作品を購入後、1986年の大きな企画展において公開しましたが、議会で自民党と社会党の議員が「作品の内容が不敬だ」として質問をしたんですね。対して美術館側は「コラージュという表現技法のひとつ」と反論したんですが、これが新聞などで報じられると、右翼の人たちの「不敬作品は放棄しろ」という宣伝カーの大音声による抗議が始まったこともあり、美術館は作品を非公開にしてしまった。僕は腹が立ちました。作品を見せるのが仕事の美術館が、自分で自分の首を絞めるような非公開という処置をするなんておかしいじゃないですか。それから10年くらいずっと美術館の倉庫に作品が眠っていましたが、誰にも知られないある時、ある人に売却されてしまうんです。裁判にも負けてしまって悔しくてね。一連の経緯は書物にしておかないと忘れられてしまう。そう思って裁判記録集を作りました。
――1993年刊行の青木新門さん「納棺夫日記」は、桂書房を代表するベストセラー作品になりました。亡くなった方を棺に納める仕事に携わり、人々の生死を見つめ続けてきた青木さんご自身の体験や哲学が綴られた同書は、日本映画初のアカデミー賞外国語映画賞を受賞した「おくりびと」の原案にもなりました。出版の経緯についてお聞かせください。
ある日の夕方、青木さんが事務所にいきなり訪ねてこられたんです。「東京の出版社に原稿を送ったけど3カ月経っても返事が来ないんだ。君のところで出してもらえないか」と言われました。原稿を見た瞬間、まず「納棺夫日記」というタイトルの意味がよく分かりませんでした。「納棺夫」という言葉は初めて目にするものでしたし、そういった職業があるとは知らなくて。青木さんは「僕はこの仕事を毎日やっているんですよ」と仰いました。
原稿のタイトルを見てちょっとうろたえたんですが、とにかく読ませていただきますと。家へ持ち帰って読んで、ああこれは大変な作品だ、出したいと思いました。でも当時、僕の幼友達で火葬場に勤めてらした方がいたんです。「納棺夫日記」には火葬の仕事をする人たちの話も出てきます。そういった仕事に携わる人たちへの偏見があの頃はまだ根強くありましたから、僕がこの本を出したら、彼はどんな顔をするかなとすごく気になったんです。彼とは毎日「おはよう」と言い合う間柄でしたから。本当に色々考えましたね。1週間ぐらい悩みました。だけど青木さんは、火葬場の職員の人たちを決して貶めようと思ってこの作品を書いてはいない。僕の友達は怒らないだろうと判断して、出版を引き受けたんです。
――青木さんも相当な覚悟で原稿を持ち込まれたんでしょうね。
自分自身が周囲から差別的な目で見られているということもあって、自分の力で跳ね返すというお気持ちだったと思います。のちに「定本」も出しましたし、桂書房の看板的な一冊になっていますね。
――桂書房さんの刊行物といえば、「記憶」シリーズも無くてはならない作品です。約80もの富山の廃村を訪ね歩き、元住民たちの声を聞きながら村の歴史を振り返る「村の記憶」(1993年)も貴重な証言や写真が満載でした。「こんな山奥に村が存在していたのか」とひとりの富山県民として驚きました。
この本を作ろうと提案なさった橋本廣先生(元・教諭。富山山岳連盟の発展に尽力)が偉大だったんですね。登山をする人だからこそ気がつかれた。登山をしに前に訪れたことのある山麓の村が、今年は消えていたとか、誰も居なくなっていたとか、そういう経験を何回もされたそうです。「これは記録に残さないといけない」という気持ちになったと、橋本先生は仰っていました。
「村の記憶」というタイトルは、編集を担当していた鈴木明子さんがつけたんです。「廃村」という言葉は嫌だと彼女は言うんです。だったら代案を出してと返したら「“記憶”という言葉はどうですか」と。彼女と僕は昔の村の様子が分かる写真を求めて、村に住んでいた方々と何十人も会いましたが、彼らは「廃村」という言葉を聞くと眉をひそめられるんです。彼女は思ったんでしょう、「廃」と言う言葉は使いたくないと。当時、「記憶」という言葉をタイトルに持つ本はありませんでした。ダム湖に沈むことになる村の場合、村人たちは「解村式」というのを挙げています。「村を解く」。村を「廃する」のではなく「ほどく」のですね。
――「廃村」という言葉を使いたくない、「記憶」にしたいという気持ちは、編集者が実際に現場に出向いて、村の人たちに会って、話を聞いたからこそ出てくる感情ですよね。
そうなの。ただデスクの上で原稿に向き合っているだけでは分からないかもしれませんね。現況写真も撮りに行こうってことで鈴木さんと一緒に何度も山に入りました。細い山道をくぐっていくので、車が傷だらけになって、なかなか大変でした(笑)。
――出版目録の冒頭には毎号、勝山さんのエッセーが収録されています。どの文章も素晴らしいものばかりです。今回の展示に寄せられた「言葉は壊れやすい生の重しであらねばならない」という文章も胸に響きました。勝山さんにとって「書く」ということ、桂書房さんにとって「発信する」ということは、どういった意義があるとお考えでしょうか。
う~ん……意義というのはちょっと。僕らは飯を食べていくために本を作っているわけで、作ったものに対して読んだ方がどうお感じになるべきか、僕らがどうこう喋るわけにはいきません。どんな意義があるかなど偉そうなことは言えません。人様の大切な原稿を預かって本にしている。そういう営みをこの社会で分担しているというだけなのです。
出版目録に文章を書くようになったのは、人に手に取ってもらいたいという思いからです。目録すら手に取ってもらえなかったらどうしよう、という恐怖心があったんですね。編集者は「黒子」でいなければと自分を戒めていましたが、自分の中の思いを少しは発信したいという気持ちもありました。世の中の問題について、小さな声を大きな声に少しでもしたいという気持ちを含めて。
――勝山さんの最新刊「元禄の『グラミン銀行』 加賀藩『連帯経済』の行方」についてお聞かせください。
江戸時代、加賀藩だった越中新川郡に「グラミン銀行」(1983年に設立されたバングラデシュの銀行。主に土地を持たない農村の貧困層に小規模融資を行う。2006年にノーベル平和賞受賞)があったという話です。今、日本政策金融公庫がコロナ対応のゼロゼロ融資をやってますけども、300年前に既に加賀藩が無担保で融資するということをやっていたんですね。「連帯経済」という今はやりのSDGsです。「富山県史」と「滑川市史」の史料編の中にそれを示す史料が活字になっていました。大事とは気づかれず見過ごされてきたようですね。今のゼロゼロ融資が一時的でないことを望みますが、税金でそれが持続されるのはいいのかどうか、議論が必要ですね。
――今回の展示を企画した「古本いるふ」の店主・天野陽史さんや、桂書房の編集部のみなさん、富山の新しい書き手といった若い世代に対して勝山さんが期待されること、受け継いでほしい部分はありますでしょうか。
社会問題の芽がそこらじゅうにありますから、その芽を嗅ぎとってほしいですね。芽の中には、その時代の最先端のものが全部入っていると思います。ひとつでも芽に気がついてそこをほじくれば、あらゆることに通じる何か広大なものに遭遇するはずです。それをネタとして何冊も本が作れるような、すごく大きなものが背後から顔を出すというのを体験してほしいです。まず「普通に腹が立つこと」、それなんです。こんなことは良くないと思うことは、普通に生活していれば必ず出合います。それらを箇条書きにしていくことです。それが生涯のネタ帳になりますよ。芽を嗅ぎとろうとする姿勢は受け継いでほしいですね。
「元禄の『グラミン銀行』」を手にする勝山さんと編集部員の川井圭さん(写真左)、宗友実乃里さん(右)。